以下の城の記事の作成にあたりましては、元新地町立図書館司書の故新貝恵様からの助言をいただき、また、当地での紹介もしていただきました。
しかし、新貝様は2009年3月22日に活躍半ばで、病魔に倒れられ惜しくも逝去されました。
以下の記事を新貝様に捧げることで、謹んで哀悼の意を表します。

中村城(相馬市)

奥州相馬氏の江戸時代の本拠地である。「馬稜城」ともいう。
相馬市の中心部、「馬稜公園」が城址であり、建物さえほとんど失われているが、主要部の土塁、堀、石垣は良好な状態で残っている。
丘陵部の主要部は石垣を除けば、中世城郭の姿を残し、周囲の低地は近世城郭の遺構であり、これがよくマッチしている素晴らしい城である。
今残る遺構は、相馬藩の本拠、近世城郭としての遺構であるが、相馬氏が本拠とする前から城館が置かれていたという長い歴史がある。

この城の歴史は、およそ以下のとおりである。
この城については、延暦20年(801)坂上田村麻呂の東夷征伐のとき利用したとされ、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした帰途、ここにあった館に宿営したという伝説もあるが、この辺になるともう完全な伝説の世界であり真偽は不明である。
時代は下って、南北朝時代になると、延元2年(1337)、周辺を配下とした中村朝高がこの地に「中村館」を構えていたという。
戦国時代、中村氏は相馬盛胤に滅ぼされ、永禄6年(1563)次男の隆胤が入った。
戦国末期、天正年間には相馬盛胤がこの城にいて伊達氏に備えていたというが、小田原の役直前には、伊達氏に攻撃されそうな状況に追い込まれていたという。
その後、この城がどうなっていたかは良く分からないが、相馬氏が関が原の合戦後、復活した後、相馬藩の本拠として慶長16年7月から拡張整備が開始され、12月には小高城から本拠を移している。

約半年で工事が終了したということから、中世の城もほとんど完成された状態であったものと思われ、再整備・補強・拡張が容易であったと言える。
その後も順次、工事が行なわれたようである。

慶長16年に本丸の西南隅に天守が建てられたが、寛文10年(1670)5月4日、落雷で焼失し、藩主19代相馬忠胤は、再建費用を懸念し、再建を断念。
以後、明治まで再建されることはなかった。明治に城の建物は、ほとんどが取り壊され、外大手一の門が唯一残っているだけに過ぎない。
ただし、主要部の土塁、石垣、堀などは、そのままの状態で残っており、昭和30年2月に福島県の史跡として指定された。

城は、相馬市街に西から張り出す丘陵の東端部にほぼ独立して存在する天神山と呼ばれる比高15mほどの丘陵上に主郭部を置き、その周囲の低地部にさらに曲輪や土塁・堀を配して築かれている。
南を流れる宇多川を天然の外堀とし、この川の水を引いて水堀が作られている。

北の小泉川方面は城地より低く、溜池、蓮池などの水堀の水を氾濫させることで北側一帯を沼地化させることを狙っていたとう。当然、その仮想敵は伊達氏である。
ただし、この城は相馬領の北限近くに位置し、相馬氏の領土は、この城の南一帯である。
本拠を置く場所としては奇異な感じではあるが、伊達氏を警戒する幕府からの何らかの指図があったように思える。

縄張りは丘陵の最高所に本丸を置き、北、西、東に北二の丸、西二の丸、東二の丸を梯郭式に配し、その間を水堀があり、堀切で区画する。
この部分が「天神山城」と呼ばれていた中世の「中村城」であり、その基本的構造は近世城郭まで引き継がれているという。
本丸の南側は高さ10m程の崖になっており、崖の直下には内堀があったが、ここは埋められてしまっている。
本丸の周囲には高さ2〜3m程の鉢巻石垣が取り巻く。

この石垣は、慶長16年(1611)、会津藩浪人幸田彦左衛門の指図で構築されたという。
その石材は、川石の自然石に割り石を混ぜた野面積である。
本丸には、御殿が現在のふじ棚を囲むようにしてあり、礎石や庭園の配石が残る。
三重の天守閣が慶長16年(1611)に本丸の西南隅に建てられたが、寛文10年(1670)落雷で焼失し、以後再建されなかった。
本丸には相馬神社が建つが、新しい神社であり、明治13年に相馬氏の祖、相馬師常を祭神にして創建されたものという。
西の虎口、黒橋の部分、東の虎口、赤橋の部分に立派な石垣がある。

それ以外は門の周囲に小規模な石垣が見られる程度であり、基本的には土の城と言える。
東二の丸は低地に近く、周囲を水堀に囲まれた丸馬出の曲輪である。
この東二の丸は中世天神山城では、中館ともいわれ、延宝2年(1674)から天明3年(1783)ころまでは、藩主の御殿があったという。
現在は野球場である。その西、本丸との間に、丸土張といわれる馬出になっている。
北二の丸(左の林)北側の蓮池。 唯一の現存建築、一の門。 東二の丸の周囲の水堀。 南二の丸、南側の土塁には、かつて合横矢が
みられる。数十本の桜が植えられ、桜の名所。
二の門跡の枡形は石垣造り。 本丸(左)と丸土張間の堀切と赤橋。 赤橋付近の本丸側は石垣になっている。 東二の丸内部は野球場である。
本丸に建つ相馬神社。 本丸北側の堀。向こうが北二の丸になる。 本丸の西側の通路、黒橋。 黒橋付近の石垣を南二の丸から見る。
この付近の石垣が一番規模が大きい。
本丸南の内堀は埋められている。 本丸西側、西二の丸側の水堀。 西二の丸内部  西二の丸の虎口の枡形。
相馬神社の参道でもある。
妙見曲輪に建つ重文の相馬中村神社の社殿。 妙見曲輪と西二の丸間の堀 北三の丸東虎口の枡形は石垣造り。 北三の丸北の外堀

西二の丸は古くは西館と呼ばれ、相馬利胤が中村城に移る前に、盛胤の隠居所であった。
後、家臣の屋敷、台所役所、米倉、火薬庫が置かれ、北側に籾蔵門があった。その西には堀を介し、相馬中村神社の社殿が建つ、妙見曲輪がある。
相馬氏の氏神は妙見であり、歴代の居城にも妙見社があった。別所館の太田神社、小高城、中村城にもあり、太田神社、小高神社、相馬中村神社の三社は相馬三妙見と呼ばれている。
この相馬中村神社の社殿は、寛永20年(1643)に18代相馬義胤が建立し、昭和58年1月に国の重要文化財に指定されている。
この曲輪の周囲の堀は深い。本丸の北が北二の丸である。ここははじめは家臣の屋敷だったが、後に蔵屋敷となり、昌胤の代に東側に奇樹・奇草を植えて「お花畑」と称する花園を造った。
また、東西に矢来門(花畑門)と西門(籾蔵門)を設け、内堀に橋をかけ本丸からの小道をつけて庭園としたという。この曲輪の北が蓮池である。
以上の丘陵部の遺構とは別に周囲の低地に曲輪群が築かれる。
丘の北に溜池、蓮池という内堀を兼ねた池を置き、さらにその北側に北三の丸、岡田曲輪、外堀を配置する。北に多重に郭等を配置するのは当然、伊達氏を意識してのことであろう。

南側の南二の丸は、通称、長友といい重臣の屋敷や馬屋(厩)などがあった。
後に馬屋が東三ノ丸に移され、その跡に常小屋(営繕所)が造られた。
南側の土塁には、合横矢がみられる。拡張工事時、数十株の桜が植えられ、桜の名所になっている。
南二の丸の東に外大手門と同構造の枡形があり、二つの門が建てられた。
このうち一の門が城址に現存する唯一の建物で、慶安2年(1649)に相馬義胤が武蔵川越城(埼玉県)城番のときに、その城門の堅固なことに感心し、それを模して作らせたという。
その南二の丸の東及び東二の丸の南が東三の丸であり、ここは、通称御厩といった。
もとは重臣泉氏の屋敷で、後に南二の丸から馬場(厩)が移され、御厩別当馬場氏が代々住んでいた。
現在は城見学者用の駐車場である。
北三ノ丸は、はじめ家臣の屋敷だったが、天明3年(1783)に大きな屋敷を造営し、藩主家の用に供されるようになり、文久2年(1862)に新殿が造られた。
その西には、岡田館(岩崎塁)といわれる藩主相馬氏の一族、岡田氏の屋敷があった。城下東には外郭の堀と土塁があったというが、市街化で失われている。

駒ヶ嶺城(福島県相馬郡新地町駒ヶ嶺字舘)
 相馬対伊達の対決の城。戦国時代相馬から伊達にわたるが、その270年後、相馬が伊達から奪還するという怨念と因縁の城である。
常磐線駒ヶ嶺駅の北西1kmに見える標高56.1mの山にある。南の低地の標高が13mであるので比高は40mほどである。
少し奥まった場所にあるため、ここに行くには迷う。城の南側に城下町であった新町地区があるが、その町中を東西に走る道路沿いに城址への案内板がある。
案内板に沿って細い道を入って行くが、岡の上まで人家があり、どこがどこか分からない。
それもそのはず、この人家が建っている岡の上がすでに城域である。
本郭まで行くのは、この付近の住民に聞くのがよい。ここじゃないかという道が、山上まで延びているが、まさにそのとおり、それを行けば、城までは行ける。
ただし、車で行くと、道が狭く、停める場所がないので注意を必要とする。

この城は、戦国時代末期に相馬氏が築き、伊達氏が奪って修築し、幕末まで支城として使用した。
築城は、永禄年間、相馬氏は対伊達の戦略として、駒ヶ嶺の藤崎に舘を築き、重臣の原如雪をおいたが、館の要害性を考慮し、新地城とほぼ同時期に新しくこの城を築いたという。
最初の城主は、原如雪の嫡子、藤崎摂津である。
伊達との争いは、相馬氏が圧され、天正末期ころにはこの地が最前線となり、天正17年(1589)五月に伊達氏によって攻略されてしまう。
その後、幕末まで伊達領となる。伊達政宗はここに黒木備前を置いて城代とした。
さらに城主は、伊達忠宗、桜田玄蕃、新田下総、富塚長門と代わった。
そして江戸中期である享甫3年(1718)、伊達一族の「宮内主税」が城代となり、仙台藩駒ヶ嶺・新地など1400石(後に2000石)を領し、明治維新まで続く。
ここは浜通り、陸前浜街道筋の仙台藩の防衛拠点として伊達氏が重視した地であった。
「仙台領古城書」にはこの城について次ぎのように書かれる。『山、駒ヶ嶺城東西24間、南北52間』とある。「東奥中村記」に『宇多郡駒ヶ嶺ニハ元来城無シ、新地便宜ノ為、藤崎村ニ屋敷構ヘシテ原如雪ヲ置レシガ城無クテハ始終如何成リトテ、盛胤の御代切開レテ城トハ成リヌ』とあり、「奥相茶話記」には『駒ヶ嶺元来は城なし。新地の繋に駒ヶ嶺の下藤崎村に原如雪を屋敷構にて指置る。而れども城無にては新地の繋に難成とて盛胤駒ヶ嶺の山を切り平げて城になし玉ふ』とある。

普通であれば、明治維新を迎え、平和裏に廃城となる、でほとんどの城の歴史は終わるのであるが、この城についてはそうは行かない。
最後にこの城を舞台に、戊辰戦争の1大攻防戦が起こるのである。
実はこの戦いというのは全く知らなかった。調べてみて思ったのであるが、守備側の主役は伊達氏、一方、攻撃側の主役の1名が相馬氏なのである。
ということはこの戦いは、当事者が知ってか、知らずか、まさに270年前の報復戦であったとも言えるのである。
伊達の家臣、宮内氏は幕末まで、この城で駒ヶ嶺、新地領を管理するが、戊辰の役では、駒ヶ嶺付近が仙台藩の防衛基地となる。
そして駒ヶ嶺城が本陣となり、2000の兵が配置される。この時の城代は宮内大蔵信清、宮内飛弾壱岐廣清である。
浜通りを北上する官軍は7月13日に平城を攻略、相馬中村まで迫る。
相馬中村藩はあっさり官軍に降伏して、逆に先陣を務める。
ここに戦国末期の対決の構図が、攻守の立場を変えて再現となる。

仙台藩は、裏切った「相馬にくし」と士気は高いが、いかんせん、装備が劣り、火縄銃と新式の銃では勝負にならず、アームストロング砲にも対抗できなかった。
戦いは南の相馬領境界で開始されるが、突破され、8月8日から城下が戦場となる。
増援部隊も到着し、仙台藩兵は知った地理と切り込みなどで善戦するが、苦戦に陥り、城下は戦禍で焼失。
8月11日、駒ヶ嶺城が攻撃により炎上、16日、20日に奪回作戦が行なわれるが、8月20日残った仙台藩部隊も壊滅。
残兵が仙台に引き上げることで戦いが終結する。
戦死者は仙台藩2000、官軍は4300人という。
この戦いの後、仙台藩も降伏、28万石に減封。この減封で生活が破綻した藩士が大勢、北海道に渡り拓いた町が「伊達市」である。
この城主、宮内家の生き残りも帰農する。 

北西側1重目の堀は、西側では腰曲輪状になっている。 左の腰曲輪から見上げた西館西端の櫓台。 西館の東にある土橋と本館の土塁。
西館、本館間の土橋から見た堀切南側。下にも曲輪が見える。 本館西側の土塁と城の解説板。 本館西端から見た本館内部。東端も内枡虎口がある。

さて、この城に来たのであるが、折から雨が降りぐちゃぐちゃ状態。おまけに夏で草木がすごい。
東半分はろくすっぽ見れなかった。西の搦手から入る。この道、切通し状になっていて、堀のような感じがしたが、果たしてそのとおりだった。
城の北西側を2重に囲む堀の外側部分の延長であった。この堀道をそのまま行けば、三館の東に行ける。
堀の途中から山に上がる道があり、そこを行くと1重目の堀底に出る。ここを8m上がる。堀底といっても西側から南側にかけては腰曲輪になっている。
この堀は西館、本館(本郭)の北西側を回り、本館と三館の間の堀切に合流する。
西館はこの帯曲輪から鋭い切岸で聳え立つように見える。西端は櫓台のようになっている
高さは6mほど。西館内部は藪であるが、北東に土橋があり、左右が深い堀切になっている。堀切の南下には曲輪が見える。
本館(本郭)には東西に入り口があり、内枡となっており、土塁がある。本館は長さ60m、幅30mほどで草原である。南下に二館がある。
北東側は西館と左右対称となるように三館が存在し、さらに北東に曲輪がある。
城の南側には段々状に曲輪があったが、ここは民家と畑になっている。
江戸時代は家臣屋敷があったという。非常に日当たりが良く風が防げる居住性のいい場所である。
南側にも堀が回っていたというが、どれかは分からない。城の主要部を見た限り、とても江戸時代も使われた城といった感じではない。
中世城郭そのものであった。北西側に2重に堀が取り巻くということから、これは相馬氏が北の伊達氏に備えたものがそのまま残っているようである。
戊辰戦争で使った、戦いが行なわれたような感じはなかった。
江戸時代、山上部分は物見台程度があったかもしれないが、戦国時代そのままという感じであった。
中腹部の家臣屋敷があったという平坦地が、城の主要部であったのではないだろうか。


新地城(福島県新地町谷地小屋館前)
戦国末期、相馬氏と伊達氏の攻防戦が行なわれた城である。
福島県の最北東端に位置し、2q北はもう宮城県との県境である。

城は新地町役場の北西2kmにある岡にある。
この岡は東西1km,南北500mほどの独立丘であり、岡の東端下に国道6号線が通る。
岡の北は三滝川が流れる水田地帯、同じく南は子田川が流れる水田地帯である。南北を湿地帯に囲まれた独立丘にある城である。
その岡の西側半分の部分に城が築かれ、東西500m、南北300mほどが城域である。
当時の陸前浜街道は、この岡の西側を通っていたというので、陸前浜街道を扼するための城と言える。
城の本郭のある場所の標高は48m地帯からの標高は40m程度である。
太平洋は東2kmという近距離にある。

この地は相馬領と伊達領が接する場所に近く、相馬氏により対伊達防衛を目的に、谷地小屋要害が造られる。
しかし、この城は平城であり、防衛上問題があったため、新たにこの新地城を築いたという。築城は永禄9年(1566)ころという。
相馬氏は、この城と南3kmにある駒ヶ嶺城で伊達氏の侵攻を阻止し、その南の本領を防衛する戦略であったと思われるが、築城当時はまだ伊達氏の勢力はそれほど強大でもなく、相馬氏もかなりの力を持っていた。
両者の勢力境界ははるかに遠方であり、すぐにこの城が戦乱に巻き込まれることはなかった。

しかし、戦国末期、伊達氏の勢力が強大になっていくに従い、やがてこの城も戦乱に巻き込まれていくことになる。

「奥相茶話記」や「東奥中村記」にこの城について記載がある。
それによると、相馬氏は谷地小屋要害を放棄して、新地の山に新しい城を築き、門馬雅楽介を城代に置くが、雅楽介は1年ほどで病死し、泉田甲斐を新たに城代する。
それから、20数年後、このころになると伊達氏は強大化し、それに相馬氏が圧迫される状態となり、この付近が両勢力の境界となってくる。

そして、ついに天正17年(1589)5月、伊達政宗は、相馬氏が田村領に出陣している隙を突いてこの城に攻撃を加え、落城させる。

この時は、相馬義胤が率いる相馬軍の主力は田村領の常葉城へ出兵中であり、城には城代の泉田甲斐、西舘城代の杉目三河以下城兵70騎、歩卒は180人しかおらず、相馬本領には盛胤(義胤の父)の率いる60騎、雑兵360人が留守を守っていたに過ぎなかった。

攻撃する伊達軍は5800の軍勢であったという。先に駒ヶ嶺城が陥落。
新地城も内通者に放火され、それをきっかけに伊達軍が総攻撃。
泉田甲斐は脱出に成功するが、杉目三河は、部下の木崎右近らとともに、突撃して主従6人討ち死にをする。
杉目三河の子は乳母とともに伊達軍に捕らえられ、後に身代金を払って呼び戻す。
相馬盛胤はこれをほめ、成人後、禄を与えて「杉目右衛門」と名乗らせたというエピソードが残る。

新地城を奪った伊達政宗は亘理重宗にこれらの城を与える。
天正18年、相馬義胤が奪還に向かうが、伊達軍の逆襲で敗退し、奪還を果たせず、以後、明治維新までこの地は伊達領のままとなる。
亘理重宗は初め坂本三河、次いで慶長初期には大町三河を城代とした。
しかし、慶長5年(1600)に坂元への引き上げが命じられており、その後廃城となったとされる。

@この道が当時のままの大手道らしい。 A大手虎口の枡形が杉林の中に残る。 B大手道は土塁の上に付けられていたようであり、
この道を行くと本郭まで行ける。
C本郭(右上)南の帯曲輪は畑になっている。
本郭直下には堀があったらしい。
D東館内部は半分は藪。
左に本郭との間を仕切る土塁がある。
E本郭内部は公園化されているが、
さすがに人はいない。
本郭南の土塁はひときわ大きく、櫓があったと
思われる。先に西館への虎口が見える。
F本郭西側の堀はきれいに残る。
G西館内部は畑になっている。 H北屋形内部。ここもけっこう藪。 I東館北の堀、かなり深いものである。 J東館から北屋形に行く虎口

 この城については、「仙台領古城書上」に『山、谷地小屋城、東西50間、南北50間』との記載があり、「仙台領古城書立之覚」には、面積3,748坪とある。
城へは、南側の舘前の集落を通る道の脇に案内板があり、その案内板に沿って行けばよい。
その道が大手道でもある。
軽自動車なら何とか本郭までは行けるが、まあ、道が狭くてやめておいた方が賢明であろう。岡下に車を置いて歩いた方がよい。
その道を行くと民家が段々状の平場に数軒、建っているが、その平場自体が帯曲輪という。
途中の道脇の杉林の中に大手の枡形があり、土塁が見られる。
道をさらに登るが、この道は土塁の上に付けられているのに気づく。
道(土塁)脇の法面が新しい感じなので、後付けのものかと思ったが、もともとあった土塁上の道を改修したものらしい。
この道沿いの西側に帯曲輪が2段見える。本郭直下には堀があったらしいが、帯曲輪を畑としたため失われている。

東側には東虎口がある曲輪があるはずであるが、藪で見えない。
道の終点が東館の曲輪であり、立派な虎口がある。東館は三角形をした形状であり、周囲に土塁が巡るが、東半分は完全な藪状態である。
東館の東側に深い堀があり、この堀が北屋形、西館の周囲を巡る。この堀は自然の地形を掘り込んだものらしい。
東館の西側、本郭との間には土塁があるだけである。
本郭は一辺70mの三角形状であり、周囲を土塁が巡る。ただし、この土塁は一部改変されているという。
本郭及び東館の一部は公園化されており、ベンチ、案内板が置かれ、地元の保存会により良好に管理されている。

かつては本郭内部は畑だったという。右の写真は、国土地理院が版権を持つ30年前、昭和50年ころの新地城付近の航空写真である。
この写真を見ると、本郭を始め、東館、北屋形、大手道周辺もいずれも畑になっていたことが分かる。
曲輪の周囲の切岸や堀は林になっており、くっきり識別できる。

南側の土塁は特に大きい部分があり、櫓があったような感じである。
本郭の西側に虎口があり、土橋を介して西館とつながる。
本郭の北側から西側にかけて幅10mほどの堀があり、明瞭に残る。
この堀は水堀であったというが、この山の上で堀に水を入れることは困難な気がした。
このため、この堀は本来はもっと深い薬研堀で堀内に逆茂木が置かれていたのではないだろうかと思った。
しかし、やはりかつては水があったそうである。
どこかに湧水点があったようである。
このような山の頂上にある堀が水堀であったという例は余り聞かないが、井戸も兼ねたものであったことが想像できる。
西館は長さ120mほどある細長い曲輪であり、北側に土塁がある。
西側は帯曲輪と堀切を経て西虎口に通じる。
曲輪内部は畑である。本郭の西側の堀に沿って北に行くと、北屋形であるが、ここも今は藪状態である。
北側は坂下口となる。西館との館のくぼみは虎口になっている。

この城の曲輪はかなり曲がりくねっていて、自然と横矢がかかるようなに湾曲が多いが、自然地形を余り変えずにうまく利用しているような感じである。
残念ながら夏場は藪が多くて主要部以外、よく見れない。
細部までじっくり見るなら秋から冬にかけて訪れるのが良いだろう。

(鳥瞰図は、鈴木啓「ふくしまの城」掲載の縄張図を参考に作成)